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道程の楽しみ方

 小説家を目指し、日夜思考中。その中で気づいたり、感じたり、些細な本音を語りたいと思います。興味のない方はご遠慮ください。   ※注意事項です。当ブログ内で、小説は公開していません。期待していらっしゃる方にはごめんなさい。

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Ⅲ 積み木遊び

73ページの日記です。


 いろいろと心配をかけてもらい、有難いやら恥ずかしいやら。


 元気です。


 相変わらずの日常を送っている私ですが、皆様の励みを貰いつつ、怠惰に過ごしております。


 まあ、怠惰の理由は“種明かし”をしますので、少しだけ待ってくださいね。


 今回は哲学的かもしれません。興味のない方は飛ばしてください。


 さてさて、記事タイトルにもある『積み木遊び』ですが、皆様も幼少の頃に遊んだ記憶があるのではないでしょうか。


 様々な形をした木。それらを積み上げていくだけの遊び。

 まあ、ご覧の方には10代の方も(主に30代に読まれているのですよ。私のブログはね。40代以上もおりますよ)いらっしゃるので、木片などではなく、プラスチック製だったりするのでしょうが、材質の違いですから捨て置きますね。

 知らないという方がいるかもしれませんが、知ってください。そういう遊びがあるのだと。


 自分がなにかを作り上げていくことの喜び。それが形になっていく楽しみ。今の歳でやったら、さぞかし奇異の目で見られるのでしょうね。


 それでも思うのですよ。


 気楽に積み、なんとなく作り上げた積み木が気に入らず、右手を振り下ろしてしまう感覚。

 無意識的にしろ、意識的にしろ、とても残酷なシーンだと思いませんか。


 幼少の子がにこにことしながら、振りかざすその手。たまたま甥っ子が遊んでいた場面です。出来上がった形に喜び、それを壊すときの無表情。


 恐怖感に駆られました。


 子は無垢だといいます。

 そこに人の有様が浮かんでくるのは、ごくごく自然かもしれません。人はなにかを作ります。意識的にしろ、無意識的にしろです。人は有形、無形にとらわれず、作り上げることをやめません。

 人の業ともいえるのでしょうか。

 私が執筆すると命が生まれます。物語に主役がいるのは当然ですが、主役がいれば脇役がいます。彼ら(彼女ら)は作品世界で息をし、生活し、死んでいきます。

 彼らにとって、私は神だといえるでしょう。

 神のきまぐれで、削除される彼や彼女には命があり、形があったのです。


 それらを壊し、なかったことにしてしまう私という神がいる。

 神話の世界ではないですが、こうして“なにか”を作り上げていく。それが人だと思えた瞬間でしたね。子は人なのだ。そう実感させられましたよ。


 子供であれ大人であれ、人というくくりからは逃げられない。生まれながらにして人は人であり、意思は意思なのだということ。無と有の区別は二元論と同じですね。陰と陽とも、善と悪ともいえるでしょうから。

 無垢だからこそ、外見や外面にとらわれることがない。

 無垢だからこそ、ためらうことがない。


 子は知っています。

 壊れること。作れることを。


 誰が教えたわけでもない“それら”を、誰の許しもなく実行できます。そこに宗教や利害はありません。それはただ“そうしたかった”にすぎない感情であり、感覚なのです。

 親が与えた人の知識ではなく、神が与えた教えでもない。

 そこにあったのは感情であり感覚。


 作りたい意思と壊したい意思。


 他の誰かが見れば、とても微笑ましい光景なのかもしれません。無邪気に遊んでいる子。それが私には恐かった。そう感じてしまったというお話です。


 名前を失念したのは申し訳ないですが、ファンタジーを専門に扱っている方がいっていました。

「幼少(ここでは5歳以下を指しています)の子と、老人(ここでは60歳頃を指しています)が、もっとも死に近い存在であり、叡智をもっている」


 その時代背景には、医療の未発達があり、それらの年代が死亡する確率が高かったというわけですね。子は生まれながらにして神(死)に近く、老人は熟練したからこそ叡智をもっている。という説です。


 とても恐ろしいほどの可能性をもっているのが子だといえます。子には可能性という名の未来を認識できなくても経験して成長していきます。老人に未来が残されていなくても知恵と知識があります。それこそが神の摂理を解く鍵だと考えていたわけですね。

 本当に名前を失念したのが、申し訳ない。これを読んで知っている方がいたら、教えてくださいね。



 先ほどの話に戻りますが、あの恐怖感とともに思い出したのがその説です。


 人魚姫を書いたアンデルセンも、子を人として見ていたふしがあります。彼も私と同じように感じていたのかもしれません。子は人であり、私との差異は経験という歳月だけだということを。


 それらが作品に生かせないか。


 その苦心が私を怠惰にした理由です。


『危険な遊び』という映画があります。かの有名な『ホーム・アローン』で主役を演じていたマコーレー・カルキンと『ロード・オブ・ザ・リング』で知られるイライジャ・ウッドが競演しています。どちらも有名な子役で、当時は話題になりました。

 この映画ではマコーレーが演じる役の異常性が際立っています。ご覧になっていない方にはおすすめしますが、自身に子供がいる方にはおすすめできませんね。ここで映画の内容には触れませんので、悪しからず。


 ああいった作品を創ることも、創作する楽しみに入ってしまうのです。


 それが執筆中の作品に生かせないものかと、ごろ寝をしていたわけですね。


 創造し、誕生させて育む。

 傷をつけ、壊し、朽ちさせていく。


 人のもつ面を取り入れれ、どう描くのか。それが悩みどころですね。


 それではごろ寝しますね。


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この記事のコメント

人は有形、無形にとらわれず、作り上げることをやめません。
人の業ともいえるのでしょうか。

んーここに感銘を受けた。
人生の極論だね、食って生めば人間なんだけど、つまらなく長い長い人生に色をつけるために、無形なものに価値をつけるんですね。
結局は無形、そこに価値も何もないに等しいのに。
あー哀しいかな短い人生。
2010-04-07 Wed 23:39 | URL | まさおさん [ 編集]
 そうですね。

 有形があるからこそ、無形の価値が生まれるというもの。色彩を欠いた世界で色を認識することはなく、色彩を欠いたと知ったからこそ価値に気づくのでしょう。

 だからこそ色をつけたくなり、価値を追い求めるようになるのかもしれません。

 ですが、自身が発光することができれば、周りには色や影が生まれますよ。

 人は星に例えられます。誰かが見る一瞬に、私の生という輝きあると思いたい私がいます。

 一緒に磨き、輝いていきましょう。ひとつではなく、ふたつに。それこそ鼠算で、流星群のように輝ければ、きっと面白い人生だったと思えますよ。
2010-04-08 Thu 03:28 | URL | misaka [ 編集]

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